忘年会っていつから?意外と長い歴史の話

皆さんの職場では忘年会があるでしょうか?
弊社でもあるのですが、この忘年会。いつからされているんだろう?と気になり、少し調べてみました。
年末の風物詩みたいに定着していますが「ある日突然はじまった行事」ではありません。いくつかの年末行事や宴の文化が、長い時間をかけて重なり合って、今の忘年会の形になったようです。
まず、古い記録として挙げられるのが、室町時代の皇族、伏見宮貞成親王の日記「看聞御記」です。
この日記には、年末に連歌の会が開かれ、深夜まで酒宴が続いた場面を振り返って「年忘れと謂うべきか」という趣旨の記述があります。
15世紀前半にはすでに、「年の終わりに仲間で集まり、歌や酒で一年を締めくくる行為」が行われていたとのことです。
500年以上前の飲み会の歴史…
結構興味深いです。
ちなみに、このころの「年忘れ」は、今のどんちゃん騒ぎのようなものとは少し違います。連歌や詩歌の会が中心で、知的な遊びや文化的な行事の色が強いです。けれど、年末に集い、食や酒をともにしながら一年の区切りをつけるという点では、忘年会と同じ性質を持っていました。
一方で、鎌倉時代の武士たちの間に「年忘れ」の酒宴があった、という起源説もあります。
戦いや政治で緊張の多い日々を送る武士にとって、年末は厄や疲れを祓い、心を切り替えるための節目。そのために酒宴を開き、嫌なことを忘れて新年へ向かう集まりをしていたようです。ただ、ここは室町の看聞御記のような決定的な一次史料が残っているわけではないので、「そう考えられている源流の一つ」として扱うのが正確です。
次に大きな転換点になるのが江戸時代です。
この時代、年末の宴は宮廷や武家の文化だけでなく、町人社会の生活に入っていきます。
商家では「仕事納めのあとに一年の働きをねぎらう小宴」を開いたり、得意先や奉公人を労う席を設けたりしたと言われます。
職人仲間や寄り合いでも、年末に酒を酌み交わし、互いの働きをねぎらって気分を切り替える習慣が広がりました。
ここで「庶民の年末宴会」としての忘年会が、かなり今に近い形で定着していったと見るのが一般的です。
この江戸期の広がりは、今の忘年会に近い雰囲気を作り出していったようです。単なる厄払いではなく、仲間内の親睦や労いを含んだ場。一年の出来事を語り合い、笑って締める場。今の忘年会が持つ「慰労と親睦」という側面は、ここで強く育ったと考えられています。
そして「忘年会」という言葉そのものの歴史もあります。
言葉の用例で確実に確認できる早い例としては、江戸時代の建部綾足の随筆「古今物忘れ(1772年)」に「忘年会」という語が出てきます。
この時点では、のちに一般化する「一年の憂さを晴らす宴会」という意味が完全に固まっていたわけではなく、言葉が先に作られて、その意味が広がっていったようです。
明治後期になると、忘年会は役所や学校、企業、学生仲間など、組織の中の年末行事として急速に一般化します。
夏目漱石の吾輩は猫である(1905〜06年)に、注釈なしで「忘年会」が出てくるのは、当時すでに広く通じる行事名だったことを示しています。
こうして並べると、忘年会の歴史はだいたい下記のように整理できます。
室町時代、年末の「年忘れ」という集まりが確実に存在していた。
鎌倉の武士の年忘れ宴は源流の一つとして有力だが断定はできない。
江戸時代、庶民の間で年末宴会として広がり、現在に近いスタイルが定着した。
江戸後期から明治にかけて「忘年会」という呼び名が整い、明治後期には一般語として社会に根づいた。
歴史を通して見ると…
室町の公家たちは連歌と酒で一年を締めた。
江戸の町人たちは仲間と杯を交わし労をねぎらった。
明治の人びとは組織の区切りとして忘年会を育てた。
形は違っても、どの時代も「一年を終えるための区切りの儀式」であり、「嫌なことを水に流して新年へ進むための再起動の場」だった。
忘年会という文化は、そういう人間の自然なリズムから生まれて、長く続いてきたものなんだと思います。
こんな小ネタを書いても、結局は楽しく仲間と語らう場があればいいのかなーなんて思いながら週末の忘年会に向かいます^_^
