誰に祈ってるのか分からないけど祈りを捧げる

そんな場面をメディアで時々見ます。
祈っていることはなんとなく想像ができます。
そういった場面では、スポーツ、試験、何かの取組で手を合わせたり、握ったりしています。
「このまま試合が終わりませんように」
「優勝できますように」
「良い結果が出ますように」

こういう場面を見るのが好きです。
努力の成果を全力で出し切り、あとは自分の采配ではないところで沙汰を待つ。

でも、誰に祈っているのだろうと考えると、結構あやふやです。〇〇神のようにハッキリしているケースは稀のように感じます。

それをある神社の方に伺うと、次のように教えてくださいました。

神道(しんとう)では、八百万(やおよろず)の全ての物事に神様がいます。先程のお祈りは、そこに向けてお祈りしているのではないかと思います。神社はそういったお祈りを捧げるための装置です。
例えば、七夕ではスーパーマーケットや学校でも願い事を書きます。でも神社で書いてご奉納したほうが、なんとなく叶えられそうな感じがしますよね。それが装置としての役割です。

ナルホド…と思いました。
私は自分自身のことを無宗教だと思っていました。
でも、お祈りをすることはあります。
家族の健康、自分や周りの夢の実現などなど…
そう考えると神道のようです。

それも神社の方にお伝えすると、もう少し教えてもらいました。

神社ではどんな宗教の方でも受け入れます。
キリスト教、ヒンドゥー教、仏教、他の様々な宗教。
何を祈るのか、誰に祈るのか。
そういったことを厳しくルール付けしている宗教もありますが、神道はそういう部分に寛容です。

宗教観的なものに薄い私にとっては、そのくらいの幅広い考えの方がありがたいです。
とか、メディアでお祈りをしているスポーツ選手を見ながら考えていました。

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